大学という場

こんな記事(http://d.hatena.ne.jp/Wallerstein/20060822/1156205137)を見かけた。一部だけ引用しまうと文脈がわからなくなってしまうので、全文引用させて頂きます。どうかお許しを。

こんなことを言っている大学があるそうな。

これまでの日本の大学は,格調高いシェークスピアの文学やワーズワースの詩を理解できる学生を育てる工夫をしてきたが,そのような人材は必要としていない。TOEICTOEFLのスコアを上げることを必要としている。

これでは金成マツノートの翻訳をすることなど、必要とされていないわな。これが私立大学の現状だ。大学の英会話教室化。しかし大学が英会話教室には絶対に勝てない。なぜならば、そもそも守備範囲が違いすぎるからである。TOEICTOEFLのスコアを上げることを必要としていれば、私は迷わずNOVAかどこかに行く。大学には「格調高いシェークスピアの文学やワーズワースの詩を理解できる」ようになるために行くのではなかったのか。

僕自身は大学という場を「学者を生で見られてしかも話までできる至福の場」捉えていたので、大学がこんなザマになってしまうなんてちょっとショックです。先日の記事(http://d.hatena.ne.jp/nobita_t/20060818#p1)で取り上げた「モラトリアム学部」発言をした大学関係者に対して幻滅したばっかりだったので、その直後にこういう記事を読んでしまうと、あらためて私立大学全体としてこんな傾向にあるんだなと実感させられてしまった。そもそも大学行かなくてもできることをなぜ大学でやるのかと。
大学が学生に迎合してしまっては本当の意味での人材は育たないだろう。でもそういう大学がだんだん主流になっていくんだろう。「四大卒」という肩書きがどんどん形骸化していく。