「ハブ消費者」の堕落は続く−ブロガー堕落論に思う(加筆修正)

大学の学部が経営系だったので、卒論は「口コミがマーケティングに及ぼす影響について」というようなテーマで書いた。
冒頭で1973年に愛知県で起きたいわゆる「豊川信金事件」*1や、都市伝説の類の中で1990年頃の人面犬騒動などの有名どころをいくつか取り上げて口コミの伝播の様子をオールポートやポストマンの文献を参照しながら類型化していき、本題のところで96年の「たまごっち」前後で口コミの質量が大きく変化していることを指摘して「たまごっち」以降の口コミについての研究をまとめるという、ベタな内容だった。*2
で、琥珀色の戯言さんのこの記事(http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20060711#p2)を読んで思ったこと。

メディアの映画の紹介記事が、「提灯記事」になりがちな理由のひとつとして、そこに「配給会社などの製作サイドとの馴れ合いの構造」があって、ブロガーの多くは、そういう「利害構造」にかかわりのないところで「メディアには出てこない、本当の感想」を書こうとしているわけです。

でも、こうして「ブロガー試写会」に「招待」されちゃったりするというのは、「人気ブロガー」というのもまた、ひとつの「権威」であり、やりようによっては、多少でも「利益」を生み出す可能性がある存在だということなのですよね。

そして、それはまた、ブロガーが「馴れ合いの構造」に取り込まれていく可能性も示唆しているのです。

fujiponさんの言う『ブロガーの堕落』の構造が、そのままたまごっち以降の、主に女子高生による情報発信*3の構造に重ねることができる。90年代前半より、バブル景気後の新たな勢力としてメディアによらない「女子高生発の情報」がどんどん力をつけていく。「女子高生」という一つの文化まで誕生した。ここでいう「女子高生発の情報」がいわゆる「口コミ」と認識されていくのであるが、その代表的な例がナタデココであり、前述のたまごっちでもある。ただし、ナタデココの状況とたまごっちの状況はかなり異なる。前者がメディアに取り込まれる前の、比較的ピュアな状態の口コミが元になっているのに比べて、後者は綿密に練られた計画の下に口コミが利用されている。大々的にメディアに口コミが完全に取り込まれてしまった、一番分かりやすい例である。以後、女子高生は完全にメディアに取り込まれてしまい、「チョベリバ」などのような、いわゆる若者言葉など、女子高生像がメディアによって生成されていくにしたがって女子高生は急速に勢いを失っていく。テレビに出たい一心の一部の『堕落した女子高生』によって、女子高生全体の勢いが失われてしまった。たまごっち後の時期から、味をしめたメディアは積極的に口コミを利用するようになり*4、ブームの消費(=ブームの使い捨て)に拍車がかかる。
その後の、今日における個人ブログの台頭は、メディア→女子高生(一般消費者)→メディアと続いてきた情報発信の力点の流れに対して、再び一般消費者がその力点を奪いつつあると考えられるのではないかと思う。時代を追って見てみると、一般消費者の堕落の構造である『ブロガーの堕落』自体は特段新しいものではなく、先に見た『女子高生の堕落』の構造とほとんど同じといえる。結局力を持った一般消費者というものはメディアという権威に取り込まれる運命にあるのであり、本当の意味での「消費者発の情報」というものが日本を駆け巡るには、日本はいささか大きくなりすぎてしまったのではないか。
まだブログ論については全く未知の領域なのでなんとも言えないが、メディア→女子高生(一般消費者)→メディア→ブロガー(一般消費者)と移り変わってきている情報発信の力点は、ブロガー人口が首都圏に偏っていたり*5、テレビで個人ブログを取り上げるような番組が氾濫している状況を見る限り、ブロガーがメディアに取り込まれる形でまたメディアへと移っていくんじゃないかな。
卒論執筆当時はまだここまでブログの普及率が高くなってなかったので、WEB2.0的な話題まで触れられなかったけど、当時既にこのような状況だったとしたら多分fujiponさんの結論と同じようなものに至ったであろうと思う*6

*1:女子高生同士の会話の中での「豊川信金は危ないわよ」発言(全く根拠のない風説)が原因となり、最終的に取り付け騒ぎに発展

*2:それでもほぼ丸2年費やした

*3:少々乱暴な言い方であるがそれはとりあえず置いといて…

*4:この傾向自体は90年頃の「ティラミス」、92年〜93年頃の「ナタデココ」からあったが

*5:特にはてな

*6:ちゃっかり手柄を横取り