鏡の法則−A子が親として最低な件

http://www.arai516.com/blog/2006/07/post_e7bc.html
噂の鏡の法則。いろいろな方がつっこみを入れていて出遅れたので無理やり違う視点からつっこみをいれてみる。
A子は息子のことで悩んでいるという。

A子にとって一番辛いのは、息子が心を開いてくれないことだった。
「僕は平気だ」と言い張るばかりなのだ。


A子が、「友達との上手な関わり方」を教えようと試みても、「うるさいな!ほっといてよ。」と言ってくる。
「転校しようか?」と持ちかけた時は、「そんなことをしたら、一生うらむ
よ!」と言い返してきた。


息子の状況に対して、自分が何もしてやれないことが情けなく、A子は無力感に陥っていた

そしてA子は息子がいじめられているということを近所の奥さんから聞いて驚く。

A子は愕然とした。
そんなことを私に黙っていたなんて。」


そんなつらい思いをしていながら、自分に何も言ってくれないということが悲しかった。
その日は、あらためて息子から聞き出そうという気力も湧いてこなかった。

ポイントは「そんなことを私に黙っていたなんて」。要するにA子は息子がいじめられていることに悩んでいるわけではなく、そのことを自分に話してくれないということに悩んでいると考えられる。ということは息子が抱えている問題がいじめだろうが身長が低いことだろうが席替えで気になるあの子との席が離れてしまったことだろうが、A子にとっては関係ないことだ。息子の悩みが永遠に解消されなくとも、息子が自分にとりあえず悩みを(表面的であれ)話してくれさえすればA子の悩みは全て解消されることになる。形はどうあれ息子を掌握してさえすればいいのだ。なんという親の傲慢であろうか。
A子の悩みが息子のいじめ自体ではなく、そのことを自分に話してくれないこと、という見かたをしてみれば、A子の内面の変革によって息子への接し方が変わりその結果息子のA子への接し方が変わってA子の悩みがなくなってめでたしめでたしというストーリーに、つっこみどころは満載とはいえ矛盾はなくなる。それならいじめ問題の解決とA子の内面の変革に因果関係がなくて当然なのだ。いじめが解決しようがしまいがそれはただのおまけであって、A子がすっきりしさえすればいい。
ただ、こうやって見るとなんの感動もありゃしない。たんなる「カルト勧誘の手引き(A子の場合)」になってしまう。「鏡の法則」とはどう見てもどうしようもない話なのかな。


(追記)
鏡の法則のいやらしさの元凶ともいえるA子と父親の電話での対峙シーン。だめ押しともいえるこのシーンで

父 「(涙声で)A子、すまなかった。わしは、いい父親じゃなかった。お
前にはいっぱいイヤな思いをさせた。うっ、うっ、うっ、(ふたたび嗚咽)

A子「お父さん。ごめんなさい。私こそ悪い娘でごめんなさい。そして、
私を育ててくれてありがとう。うっ、うっ、うっ(ふたたび嗚咽)

という女子中学生がこつこつ書き溜めた小説でも使わないような稚拙な表現にびっくり。と思ってたら、こちら(http://d.hatena.ne.jp/yoshida65536/20060703#p2)にあるように

つまり「鏡の法則」という文章は、不特定多数の人を感動させるための物語ではないのです。だとすればいったい何なのか。私はこの物語は同じような境遇にある人をピックアップするための一種のフィルタ__リトマス試験紙なのではないかと考えます。

という考え方もあるとのこと。納得。