コミュニケーション能力とは

YOMIURI ONLINEより(http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news2/20060407wm02.htm
まとめると

増加するニート対策として、昨年7月にスタートした「若者自立塾創出推進事業」で、厚生労働省から委託を受けた福生市の「若者自立塾」では、ニート共通の対話能力不足の解消に力点を置いた訓練で効果を上げている。対話をきっかけに、意欲や方策を見いだし、就労に結びつけるケースが増えている。

という内容なのである。で、問題なのが

入塾した若者に共通しているのはコミュニケーション能力の低さで、対話能力を向上させることに力を注いでいる。例えば、援農作業をしている時に、農家の人に「トマトが真っ赤になったよ」と話しかけられても、「そうですね」と答えるだけで会話が終わってしまう。資源ゴミの分別作業でも、ただ黙々と作業を続けるだけ。副塾長の石井正宏さんは、自発的な発言から生まれる対話能力こそが意欲の源と考えてコミュニケーションを重視している。分別作業中に、「これはどのカゴですか」という言葉が発せられれば、それだいけで一つに進歩だという。

ここで『ニート共通の対話能力不足』が『入塾した若者に共通しているのはコミュニケーション能力の低さ』と、いつの間にか論点がすりかわっている点である。これは何を意味するのであろうか。
昨今話題になっている「コミュニケーション能力」というのが定義もあいまいなまま声高に叫ばれている。働かない若者や凶悪犯罪の増加の原因が「コミュニケーションの能力の不足」というのである。そこで「コミュニケーション能力を育成する教育を」というのである。定義のよくわからない「コミュニケーション」という言葉を盛んに用い、それらしい言葉で微妙に論点をずらしているところを見ると、その裏に妙なイデオロギーがうずまいているのではないかと疑いたくなる。今の若者は会話が足りない、ということを言いたいだけなら、定義のはっきりしない「コミュニケーション」という言葉を敢えて用いる必要もあるまい。会話能力という切り口から入って、変なとこに誘導する気なのであろうか。「コミュニケーション」教育は先の英語教育のような形で学校教育にも導入され始めている。そう考えていくと、上記リンク先の記事がなんとも作為に満ちた文章に見えてくる。「これほどコミュニケーション能力って大事なんだよ!」という裏付けをどうにかしてしてしまってそっちの方向へ世論を動かして既成事実を作ってしまいたい、というような・・・。それは考えすぎか。
また、引用文中の『自発的な発言から生まれる対話能力こそが意欲の源と考えてコミュニケーションを重視している』という部分が全く意味不明なわけであるが・・・。この文脈でいうと『トマトが真っ赤になったよ』と言われて「そうですね。まるで空高く輝くあの真っ赤な太陽のようです。自然の大いなる力を感じずにはいられません。」とでも言えば仕事がはかどるというころなのであろうか。『自発的な発言から生まれる対話能力』と『コミュニケーション』がどのように関わっているのか、そもそも『コミュニケーション』とは何か、ということを明らかにしないままこのような表現がなされているところにも、作為的な何かを感じてしまう。
いずれにせよ、定義のよくわからない言葉に踊らされて、一呼吸おいて自分の頭で考えることを放棄してしまうようになっては、それこそ「コミュニケーション能力の不足している」人間になってしまう。(4月11日加筆)


(蛇足)
『トマトが真っ赤になったよ』『そうですね』がいわゆる「コミュニケーション能力が不足している」というのであるなら、この世のほとんどの人間が「コミュニケーション能力の不足している」人間であるのではないか。